やめたいという気持ちが浮かぶ。
それを認めることは難しい。続けてきた時間、関わっている人たち、自分自身の言葉や選択へのコミットメント。それらがある中で「やめたい」という気持ちを持つことは、何かを裏切るような感覚を伴うことがある。
「やめたい」が浮かぶとき
やめたいという気持ちは、いくつかの異なる状態から来ることがある。
疲弊して余裕がなくなっているときに浮かぶことがある。義務感だけで動いていて、意味を感じにくくなっているときに浮かぶことがある。あるいは、方向性そのものへの根本的な疑問が生まれているときに浮かぶことがある。
これらは異なる状態だが、「やめたい」という言葉で一緒に表れることがある。
やめたい気持ちを解釈する前に
やめたいという気持ちが浮かんだとき、「これは本物の気持ちか」「今だけの感情か」「本当にやめていいのか」という解釈が始まることが多い。
だが解釈の前に、その気持ちが「どういう状態から来ているか」を確認することの方が先に来るかもしれない。
解釈は、状態の理解の後に行う方が、精度が高くなる。
「やめたい」は行動の指示ではない
やめたいという気持ちは、必ずしも「やめなければならない」を意味しない。
その気持ちは、何かのシグナルかもしれない。休む必要があること。変化が必要なこと。あるいは、今の形ではなく別の形で続けることが可能なこと。
やめたい気持ちを持ちながら、しばらく観察することも一つの選択だ。
やめることへの恐れと、やめたい気持ちの共存
やめたい気持ちと同時に、やめることへの恐れが存在することがある。
「やめた後どうなるかわからない」「やめたことを後悔するかもしれない」。この共存が、気持ちを複雑にする。
どちらかが本当で、どちらかが偽りというわけではない。両方が今の状態だ。